「フリーランスの獣医麻酔科専門医」というユニークな肩書きで活躍されている小田彩子先生。アメリカの大学で獣医麻酔を学び、専門医資格も取得した先生が日本の動物医療に思うこと、伝えたいこととは。国内ではまだ発展途上という動物の麻酔の重要性と、正しい理解について、お話を聞きました。
小田 彩子 先生
目次
アメリカでの学びと経験を日本の動物医療に活かす。その思いでフリーの獣医麻酔科専門医に。
アメリカの大学で獣医の勉強をするに至った経緯をお聞かせください。
父の仕事の関係で高校からアメリカで暮らすことになって、そのまま向こうの大学に進学しようと思いました。でも最初は「この分野を学びたい」というものが特になくて、自分に何ができるか考えてみたんですね。語学力の不安がどうしてもあったので、言葉が主体の文系はまずないなと。じゃあ理系だと何だろうと調べているうちに「アニマルサイエンス」という分野を見つけて、元々動物も好きだったし「これだ」と思ったんです。
麻酔の専門医を目指すようになったのは、そのさらに先ということですね。
アメリカの大学を卒業したあと、獣医学部へ進みました。日本でいう大学院のようなところです。そこで獣医師課程を終えた学生の多くは一般の獣医師になるのですが、私は専門医の道を選びました。本当は馬が好きだったので、馬の獣医もいいかなと思ったんです。ただ馬の獣医となると牧場での診察などがメインになるので、押しの強そうなアメリカの牧場主さんに圧倒されそうだなあと(笑)。いろいろ考えているなかで、たまたま仲良くしてもらっていた先生が麻酔科の方だったので、飛び込んでみました。
アメリカで専門医の資格も取得されました。
「米国獣医麻酔疼痛管理専門医」という、動物に施す麻酔と疼痛(痛み)のコントロールを専門に扱う資格です。大学の獣医学部(College of Veterinary Medicine)を卒業して、一年の研修期間を経て、さらに3年間の専門医課程を修了し、認定試験に合格しなくてはなりません。全世界で277人※がこの資格を持って活動しています。
※2020年8月現在
そこから活動の舞台を日本に移されましたが、それはどんな思いからですか?
麻酔の専門医資格を取ったあと、そのままアメリカで研究を続けたり、2次診療の施設に勤めたりする道もありました。でも私にはアメリカで学んだことを日本に伝えたい、還元したいという思いがあって、そのためにはやっぱり国内に戻って活動しないと。海外からの発信ではなかなか広がらないと考えたんです。そこで日本の獣医師資格も取得して2019年に帰国し、そのままフリーランスの獣医麻酔科専門医として動きはじめました。
最悪を想定しながら、動物の様子を注意深く見守る。麻酔は最後まで気が抜けない。
フリーランスとしてのお仕事はどのような内容・流れになりますか?
今は提携している病院がいくつかあり、そこに定期的に訪問するパターンと、不定期に個別で依頼をいただくパターンがあります。麻酔が必要になるシーンとしてはやはり手術がメインですね。オペの内容が同じでも、動物の種類や体のサイズ、症状の重さ、その子の体質などに合わせて麻酔のかけ方を細かく調整する必要があり、毎回が初めてのケースのような緊張感があります。
手術以外にも麻酔が必要になるケースはありますか?
代表的なところでは歯の治療も麻酔をかけて行うことが多いですね。それからCTやMRIなどの画像診断を行うときも、鎮静のみですむ場合もありますが、動物の動きを抑えるために麻酔をかけることが多いです。また犬と猫でいうと、犬は定期検診にも来たりしますが、猫は病院を嫌がる子が多かったり、飼い主さんが具合が悪くならないと病院へ連れてこなたかったりするので、結果的に犬の方が麻酔を使用するケースは多くなってきます。
麻酔をかける際、特に注意しているポイントは何ですか?
手術などの侵襲性がある(体にかかる負担の大きい)処置が伴うことが多い麻酔管理では疼痛管理もセットで考える必要があり、術中だけでなく術後もケアを怠ってはいけません。麻酔中は意識がないので「痛い」とは感じていませんが、手術による侵害刺激が大きいと、それを抑える対応が必要になります。そうしないと、覚醒した後(術後)に大きな痛みによる苦痛を味あわせてしまうので。ただ、動物は人間のように言葉で痛みの位置や度合いを教えてくれないので疼痛評価が難しく、注意深く観察し変化に気づいてあげないと疼痛に気づかず適切な疼痛管理を行えないことがあります。
予期せぬ状態の変化に対応するのも簡単ではなさそうです。
特に要注意なのが、麻酔が効きはじめるときと効果がなくなるとき。「導入」と「覚醒」のタイミングです。思わぬ反応が現れたり、体に負担がかかり過ぎたり、何が起こるかわからないので気が抜けません。最初に想定していたプランが崩れてしまうこともあり、そのときはプランB、プランCにすぐ切り替えて対処します。事前に先を読んで準備できているか、特に「最悪の事態」をどれだけ考えついているかが問われるシビアな局面です。
獣医師の間でさえ、麻酔の理解はまだ発展途上。体系的な知識・ノウハウの集約が求められる。
日本の動物医療のなかで、麻酔の分野が抱えている課題は何でしょうか?
麻酔や疼痛管理について、理解が不十分な部分がまだあると感じています。獣医師でも知らないということが多い。獣医麻酔学を学ぶ場所が確立されてないがために、自分の麻酔管理法に自信がなかったり、麻酔がうまくいったかどうかを「命に別状がなかったか」でしか評価できなかったり、本当は麻酔を使うべき治療なのに「何かあったら不安だから」と使えなかったり、麻酔の適切な運用に課題があると思っています。特に麻酔覚醒後の動物が痛みや苦しさを感じているか、正しく気づけていないケースも少なくないように思います。
麻酔の知識・ノウハウが不十分であるのは、どんな背景からだと考えますか?
麻酔疼痛管理の専門医を育成するシステムが日本に確立されていないことが、大きいのではないでしょうか。もちろん麻酔について学べる大学もありますが、分野全体を体系的に学べる麻酔科はほとんどありません。研究や知識、技術が集積している場がないんです。そうすると学生でも獣医師でも「麻酔についてもっと知りたい」「相談したい」という人が頼りにできるハブがないので、みんな手探りで自己流の麻酔処置をやるしかなくなる。それはあまり好ましい状況とは言えません。
ご自身が学ばれたアメリカでは、大学の麻酔科がハブの役割を担っているのですね。
麻酔疼痛管理の分野に限らず、アメリカでは大学が「学びたい」「知りたい」に応える場になっています。一般の病院では扱えない難しい症例を最終的に受け持つのも大学の病院で、「何かあったら最終的に頼る場所」という大学の位置づけが確立しているんですね。教育や研究のシステムができあがっていて、機能しているなと感じました。
他に日本とアメリカの違いで感じられた部分はありますか?
動物看護師の果たす役割についてですね。アメリカでは麻酔と疼痛管理の部分を、獣医師の監修のもと看護師が主導して回すケースが結構ありました。看護師が動物の状態を見ながら麻酔を運用できれば、獣医師は治療に集中できますし、日本でも同じような役割分担や看護師教育ができないかと考えています。
麻酔は「正しく理解し、正しく怖がる」ことが大切。そのためにも専門医を頼ってほしい。
麻酔疼痛管理の理解を広げるために、専門医として取り組んでいることはありますか?
獣医師向けにセミナーなども行っていますが、そうした場以外でも「知りたい」「教えてほしい」という声にはどんどん応えるようにしています。「麻酔のことでわからないことがあったらとにかく専門医を頼ってください」というスタンスで、私が伝えられること、見せられることは100%オープンにしています。わからないまま自己流でやってしまうと、応用がきかないので。
特に動物の疼痛をどう判断するかは、教えるのも難しいと想像します。
一番わかりやすいのは、ビフォーアフターで具体的なケースを見せることです。たとえば以前、首から脂肪のかたまりを摘出した柴犬の子がいたのですが、術後に立ってはいるけど全く動かない状態になってしまったんですね。でも苦しそうな素振りはしていないから「もう元気」と周りは評価してしまう。でもそれは、本当はまだ首に痛みがあって身動きができない状態なんです。そこで鎮痛の薬を足してあげたところ、いつもどおりに動けるようになりました。そうやって「動物のどういう状態が何を意味しているのか」を実際に見て学ぶことが大事で、その知識を蓄積しないと正しい疼痛評価はできません。
飼い主の方へ伝えたいことやメッセージはありますか?
多くの飼い主さんにとって、麻酔は「我が子に何が起きているかよくわからない」「薬で眠らせるってちょっと怖い」「本当に痛みを感じていないんだろうか」「だから不安」というものだと思うんです。でも「麻酔は何となく不安」というイメージが一人歩きするのは良くないと感じていて、麻酔がなぜ必要で、かかっている間動物がどういう状態なのか、もっとお伝えする必要もあると思っています。適切に運用する限り麻酔は必要以上に恐れるものではありません。しかしリスクが全くないかというとそれも嘘になる。難しいですが、麻酔を「正しく理解し、正しく怖がる」ことがベストです。飼い主さんの方で何か不安なことがあれば、その気持ちを言葉にして率直に獣医師や看護師に聞いてみることがまずは大切です。
Veterinary Anesthesiology Consultant 獣医麻酔疼痛管理
AMC末松どうぶつ病院・末松正弘副院長からのバトンへの回答
末松先生
Q1. 後進の指導・教育や自身の仕事について、今後どんな展望を持っていますか?
小田先生
教育のシステムについて、日本には不十分な部分があると感じているので、そこに入ってテコ入れができたらなと思っています。学生のうちに基礎・土台をしっかり固められる環境を作れたらなと。アメリカの友人と話していて「専門医のすごいところは、教育に貢献できること」と言われたことがあるんですが、私が学んだことや持っている知識・技術をもっと伝えていきたいと考えています。
末松先生
Q2. やりがいや楽しさを一番感じるのは何をしているときですか?
小田先生
獣医師や看護師に教えたことが、治療中に実際に起こったときですね。「ああ、前に言ってたの、これか!」という反応があると、ちゃんとわかってくれたと手応えを感じます。たとえば「麻酔中にある薬を使用すると特有の不整脈が出る場合がある」と教えていたことが、実際そのとおりに目の前で起こると、「知識」が「体験」になる。その瞬間がうれしいですよね。
どうぶつの総合病院 専門医療&救急センター 内科主任・佐藤雅彦先生へのバトン
Q1. 内科の専門医を志した理由、そのために渡米して学んだ理由は何ですか?
Q2. 獣医師の教育について、日本とアメリカで感じる違いはどんなところですか?
Q3. 先生と同じく海外を目指す後進の学生や獣医師に、何をアドバイスしたいですか?