「日本の動物医療に“救命救急”の分野を確立する」。中村篤史先生はその道を切り開いてきたキーマンの一人で、現在はTRVA(東京城南地域獣医療推進協会)が運営する夜間救急動物医療センターの院長を務めています。獣医業界の中で救命救急を取り巻く課題や実情、命のセイフティネットを担う使命感の源、そして日々の仕事への思いなど、最前線で走り続けてきた先生にお話を伺いました。
目次
最後まで手を尽くして命を救う。その仕組みが動物医療には抜けていた。
現在の職場で勤め始めるまでは、どのようなキャリアを歩んでこられましたか?
大学の獣医科を出てから、東京大学と北海道の酪農学園大学という2つの大学病院で研修医として勤務しました。その後、埼玉でいわゆる町の動物病院にも勤務した経験があります。獣医の世界ではこうした地域の病院を、「さまざまな症例にまず対応する」という意味で1次診療施設と呼び、そこでは対応できない、より高度で専門的な治療を行う大学病院などを2次診療施設と呼びます。
中村 篤史 先生
そこからどのようなきっかけで動物の救命救急医療の分野に進まれましたか?
1次診療と2次診療の間ではある程度連携が取れていて、たとえば町の動物病院で受診した子がもっと高度な医療を必要としている場合は大学病院に移してより専門的な治療を行う、といった体制はあります。ただ、本当に命に関わるような重篤で緊急性が高い状況に関して、最後まで手を尽くしきる仕組みが確立されているかというと、そうとは言えないのが現状です。
1次診療と2次診療のそれぞれの現場にいて、やっぱり亡くなっていく動物に接する機会もありましたし、もどかしさを感じていましたね。「本当にこれが限界なのか」という問題意識です。瀬戸際にある命を救うという部分について、これが人間の医療だったらもう一歩踏み込んで治療するだろうとか、そのための体制があるのにとか、そんな思いを抱えていました。だから動物の救命救急分野をもっと学びたい、そこに携わってみたいと思っていたところ、ちょうどTRVA夜間救急動物医療センターの立ち上げを知り、参加したというのがきっかけです。
動物の救命救急分野が発展できなかった要因は何でしょうか?
動物の救命救急が「学問」として日本では確立されていなかったことが大きいと思います。たとえば、獣医系の大学病院の中に「救命救急科」はまだありません。人医療の大学病院などにはありますよね、24時間対応のところが。獣医業界の場合は、そこにマンパワーもコストもなかなか割くことができなかった経緯があります。その意味では、獣医学自体がまだ発展途上と言えるかもしれません。
骨折などを診る整形外科やがんを患った子を診る腫瘍科など、一つの病気や症状に対する診断・治療を深く究める専門診療の仕組みは整ってきています。しかし問題は、がんを持った子の腫瘍が破裂して腹内出血を起こすとか、肺炎がどんどん悪化して集中治療が必要になるとか、事態が急変した場合。人医療では、がん患者でも急に具合が悪くなったらいったん救急車で救命救急の施設に運ばれます。腫瘍科ではなくて、まず命を救うために必要な処置を行うんです。心筋梗塞なんかもそうですよね。緊急の場合はまず救命救急科で、それから循環器科に引き継いで専門の処置を行う。そうした「命を救う」ことに特化した機関というかインフラが、動物医療には今までありませんでした。獣医療が発展していく流れの中で専門の診断・治療とは別に、救命救急をきちんと行うための仕組みが必要であると考えました。
働く環境としても魅力的なプラットフォームがないと、救命救急分野は続いていかない。
TRVA夜間救急動物医療センターには設立時から院長として参加されています。こうした病院の存在は、獣医業界にとってどんな意義を持つと考えていますか?
先ほどの「命を救う」仕組みの整備に貢献するという部分ももちろんですが、業界的には教育・人材育成的な意義もあると思っています。というのも、これまで動物の救命救急は1次診療である地域の動物病院が中心になって担うしかなかったという背景があります。個人で開業しているような規模の病院が夜間まで受付時間を延長し、急に具合が悪くなって飛び込んでくる子にできる限りの範囲で対応する。そういう夜間救急病院は日本中にありますが、当然働く場としては負担が大きくハードな環境です。すると新しい人材が入ってきてくれない。動物の救命救急はインフラとして必要なのに、特に若い獣医師にとって人気のある職場になっていない。そうした人材雇用の問題がこの分野にはありました。
その中で、救命救急に従事する環境をちゃんと整備して人を呼び込む環境を用意しないと、この分野は続いていかないという思いが強くあり、TRVA夜間救急動物医療センターを労働環境としても魅力的な場所にしていきたいと考えています。私たちが事業を営む東京でさえ人材の確保は難しく、地方ではなおさら厳しい現状がありますが、人材育成のハブになる施設があれば状況を少しずつ変えられるかもしれない。そのモデルケースになることができたらいいなと思っています。
救命救急分野の現状を変えていくために、参考にしているケースなどはありますか?
たとえば欧米では、獣医系の大学病院の中に救命救急科が存在します。アメリカに行かせてもらった機会があるんですが、向こうではそこが研究と人材育成のハブになっていて、切迫した状態にある動物の命を救う体制がかなり確立されている。そうした動きも参考にしながら、2019年に設立された日本獣医救急集中治療学会の立ち上げにも携わりました。海外の学会や人医療の救命救急分野とも交流しながら知見を集約・体系化し、若い人材にも入ってもらって一緒に学べるプラットフォームにしていくことを目指しています。
知識や技術とともに精神面が試されるシビアな世界。人間性が判断力の源泉になる。
今の職場での、救命救急の診療の流れはどのようなものですか?
TRVA夜間救急動物医療センターは東京・城南エリアの動物病院が出資し合い、自分たちだけでは対応しきれない動物医療のニーズに応えるために立ち上げられた施設。獣医師、看護師など8~10名が夜間も常駐し、日本でも最大規模の救命救急の専門機関です。
診療の流れは病気の重症度によりケースバイケースですが、一般にはまず電話で連絡を受け、症状を聞き取った上で来院いただき改めて動物の状態を診ます。獣医師が診る場合もありますし、状況によっては治療の優先度を正しく判断するために待合室でいったん看護師が対応するケースもあります。そうして動物の状態を把握し、必要であればすぐに診察・検査を行い、病気・症状の診断をして治療に入ります。状態によってそのまま入院治療に移行する場合もあります。院内には入院や手術に対応する設備もそろっています。
日々の業務に向き合う中でどんなことを大事にしていますか?
命の瀬戸際にある動物を受け入れる私たちが、精神的に余裕を持っていられるようにすることですね。来院される飼い主の方ももちろん大きな不安を抱えているわけで、それに対して冷静な対応・判断ができるかどうかがとても問われる仕事です。動物の命を救う、症状の改善に尽くすことが当然第一義ではありますが、それに加えて飼い主の方へのある意味ではホスピタリティというか、気持ちの面でのフォローをおろそかにしないことも重視しています。
極限の状況の中でも冷静であることは簡単ではないと想像します。
そうですね、どんな状況でも早く的確な判断をするには、知識や技術ももちろんですが人間性が非常に試されます。それが判断力の源泉と言ってもいい。そうしたスタッフの精神面を鍛え、育てるのはとても難しく、すごく悩みました。日々のコミュニケーションから職場の空気づくり、組織のマネジメントの部分まで試行錯誤を続けています。他業界の一流の経営者の方にコンタクトを取って、個人的に教えを請うたこともありますよ。
救命救急はやはり命に直結する切迫した現場で、ちょっとした気の緩みが生死を分けてしまうような、本当にシビアな世界です。私自身、これまで1次診療・2次診療を経験してきましたが、そのどちらとも異なる場所でした。動物を見る視点や踏んでいくプロセスをはじめ、思考回路からして全く違うものが求められる。まるで別のスポーツをしているような感覚ですね。「目の前の命を救う」とは、そんな難しさのある仕事だと思っています。
動物たちは自分の症状や状態を「言葉にできない」。大事なのはその変化に気づき、読み取ること。
TRVA夜間救急動物医療センターに来院する動物たちは、どんな症状を抱えているケースが多いですか?
犬の場合、多いのはまず吐いてしまう、下痢をしてしまうというケース。チョコレートやタマネギのような食べてはいけない中毒物質を口にしてしまったとか、おもちゃなどの誤飲もあります。骨折など大きなケガや外傷もありますし、高齢の子であれば心臓病や肺炎で肺に水がたまるといった重篤な内臓疾患まで、症例は本当にさまざまです。
わが子の体調の急変など、何らかの問題に飼い主が対応する際の心構えや判断のポイントなどはありますか?
動物たちは「自分の症状や状態を言葉で表現できない」。これが大前提です。「具合が悪い」「ここが痛い」「こういう気分だ」と彼らは言えません。その中でわが子の異変にいち早く気づいてあげること、状態をなるべく読み取ってあげることが何より大切です。
命に関わる状況として、まず一番わかりやすいのは「ぐったりする」「急にうずくまって動けない」という状態。そういうときは体の中で何か大きな問題が起きている可能性が高いです。それから「急に痙攣・ひきつけを起こす」といった脳神経系の問題や、「息が速くなっている」「咳き込んでいる」など呼吸器系の問題。呼吸に関しては異変がなかなか見えにくく、血を吐いてしまうとか深刻な状態になってやっと気づくケースもあります。そうなる前に問題を読み取るには胸の動きを見ます。動く速さや回数に変化がないかどうか。繰り返しますが、彼らは自分から「呼吸が苦しい」と言ってはくれないのです。
緊急事態に直面した中でもそうした判断・対応が咄嗟にできるか、不安もあります。
もちろん急なことで冷静になるのは難しいかもしれませんが、何を見て何を伝えればいいのか、最初にお電話いただいた際に私たちの方でも聞き取っていきます。「胸の動きは10秒間で何回動いてますか」「ベロの色ってどんな色ですか」「しっかり歩けていますか」といった感じで、具体的な質問を通して状態を把握していきます。
ですので、できるだけ彼らの出すサインを見逃さずに、具体的な様子を伝えてもらえたらと思います。最初の連絡でそれがわかるだけでも、こちらとしては十分な対応に向けて有益な情報を得ることができますから。
最後に、この仕事をやっていて良かったと思う瞬間や印象に残っているエピソードがあれば、お聞かせください。
この仕事は毎日がドラマチックな出来事の連続。思い出深いエピソードもたくさんあり過ぎて……。でも最近は、スタッフの成長というか、育てた彼らの仕事が飼い主さんからちゃんと評価されている姿を見ると嬉しくなりますね。感謝の手紙をいただく瞬間があったりとか、診療の中で「先生ありがとうございます」って声をかけていただいている風景だったりとか、そんなシーンに出会うと理想の病院のかたちに少し近づけたのかなって感じます。人間性も含めて人が成長できるような、組織として目指す姿が今やっとできつつあるという実感があって、この経験やノウハウをまた獣医業界に還元できたらと思っています。
TRVA(東京城南地域獣医療推進協会)東京都世田谷区深沢8-19-12 泉美ビル2F
日本動物医療センター・上野弘道院長からのバトンへの回答
上野先生
Q1. 救急医療現場で活躍しつつ、業界への教育・啓発活動も積極的。そのモチベーションはどこからきているんですか?
中村先生
とにかく前だけを見てきたというか、「救命救急の仕組みを早く整えないとやる人がいなくなる、続いていかない」という危機感に突き動かされてきたんだと思います。それから恩返しみたいな気持ちもあって、獣医師だった父をはじめ、多くの人に助けてもらいながらいろんな現場を経験させてもらった。大学病院も2ヶ所行かせてもらえて、1次診療も経験して今の場所にいる。1人の獣医師がこれだけ幅広い世界を見られるってそうないことです。だから自分の使命として、経験から得たものはちゃんと世の中に返すべきだと、そんな思いがあります。
上野先生
Q2. 40歳を超えても今なお大変精力的にご活躍されていますが、体力維持の秘訣はありますか?
中村先生
時間を見つけてはジムに行ったりして、トレーニングを続けています。肉体と精神はつながっていると思っていて、じっと座っていてもやっぱり頭って回らないんですよね。食事にも気をつけています。この仕事は、自分の感覚ではアスリートみたいなものととらえていて、心と体の状態を整えることが病院でのパフォーマンスを支えているという意識があります。
上野先生
Q3. 動物病院業界にどうなっていってもらいたいのか、思い描いている世界を聞かせてください!
中村先生
究極は、この業界に携わる全員がいきいきと働ける環境をつくりたい、そういう仕組みを作り上げたいという思いが強くあります。それから、獣医の業界は今まで「狭く深く」集約していく方向だったと思うんですが、これからは逆に発散・拡散の時期ではないかと。他の業界や学会とも交流して知恵を取り入れながら、何か新しいことを起こす流れをつくる。そうやって若い人たちや子どもたちから「“夢”であり続ける業界」にしたいですね。獣医さんって何だか面白そうって。
AMC末松どうぶつ病院・末松正弘副院長へのバトン
Q1. 「呼吸器」の「外科」という専門性を深く究めて、日本中で手術もされている。そうした特殊な分野一本に絞ろうと思ったのはなぜですか?
Q2. 一つの道に集中して、突き詰めてやり続けるエネルギーはどこから湧いてくるのですか?
Q3. 同じように専門を絞って究めたいという後進の若い獣医師に、何をアドバイスとして伝えたいですか?